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東京。(続編) [ishii]

あい どおん'と りめんばー!(英語で書けよって話だよね)(笑)
記憶の前後は曖昧だが、バンドもなくなり一人家で曲を作り、また宅録に戻る。この頃、下北沢周辺のバンドマンではなく、絵描きのM君やいろんな志を持ってる新しい人達と出会う。(いまでは売れっ子タレント鶴野なんかもいた)オレは某アートスクールの絵のモデルのバイトをやったり、新しい友達も増えた。どこそこに呼ばれれば、ほいほい遊びに行くって感じで、とても身軽だった。でもまだ音楽への情熱は冷めなかった。そうそう、友達でお笑い芸人のやまもとまさみっていう面白い奴がいるんだけど、彼のライブに行ったら、売り出し中のマギー審司に声をかけられ、あのー、友達になってください!というわけのわからないオファーがあったなー。(笑)やまもとまさみがマセキ芸能社に入ったのも実はオレが絡んでいた。

ある日の午後、事務所に所属していない、まさみ君が、オレと彼女が住んでる部屋に遊びに来て、イッシー(この辺の友達にはそう呼ばれている)オレどうしたらいいかなぁーと相談される。オレは情熱だよ!当たって砕けろ!みたいなことを自分の事はさておき言っていた。(苦笑)その後見事にマセキ芸能社に入る事ができて、彼はいまでもお笑い芸人をやっている。しかしあの頃は別の意味楽しかった。キャンプに行ったりいろんなタイプの人達と交流があった。デザイナーや役者の卵、ハウスが好きなDJ...etc

音楽の方はというと、一人ひっそりと作っていた。高野君なんかとは付き合いがあって、よく、高野君の奥さんにご飯をごちそうになった。シューヘイ君が、オレの家の近所に引っ越して来て、毎日のように電話がかかってきた。シューヘイ君に呼ばれ、オレはその時の自分の中で流行っていた音楽を聴かせたり、誰のためでもなく作った自分の音源を聴かせていた。(前にも書いたと思うけど、そんな時にシューヘイ君がDemoを聴かせたほうがいいよ)と言い、数本だけ4曲入りぐらいのテープを知り合いにくばる。手応えがあった。すぐにシャーベッツの福士さんから、某マネージャーのMさんを通して連絡が来た。今度オムニバスを作るのだけど入れてもいい?と言われ、断る理由もなかったのでどうぞどうぞと、事はくるくると回りだす。普段、人を褒めない元ブランキージェットシティのベンジーさんが凄く気に入ってるよとのことだった。純粋に嬉しかった。understatmentとして初めてオムニバスだが全国的にリリースとなる。気持ちはパンクだが、気分はBECKだ。

この曲にはたくさんの人に関わってもらっている。
関わってもらった人達に改めて御礼を言いたい。
ありがとうございます。

東京(番外編) [ishii]

何だか書きたい事はたくさんあるけど、なんせ昔の話で忘れている事が多々ある。
これまで、書いて来た東京偏は19~24歳の話だ。

事務所を辞めてからオレとK君は2人になった。高野君もMCAビクターのK君も色々と手伝ってくれた。
ライブをやるために高野君がドラム。(高野君は元々ドラムスだった)
名前は忘れちゃったけど女の子をベースに入れてスタジオに入った。
オリジナルはもちろん、J.M.Cのカバーなどをやっていた。
ライブもやったけど、あまりしっくりこない。

そんな時に一本の電話が入って来た。ミスチルのいる事務所の烏龍社からだった。
小林たけしが興味を持ってるみたいで、次ライブいつあるかと訪ねられた。
下北沢の251でいついつやりますみたいな事を言ったら、じゃあ、ゲストで書いておいてくれと言われた。
あと、ビデオをまわすけどいい?と訪ねられた。オレは正直ムカついた。烏龍茶だが烏龍社だが知らないけど完全に上から目線で、お前ら金あるならちゃんとチケットを買って入ってこいよと思った。結果的にはGu,K君とはその日が最後のライブになった。名前はunderstatement! 友達がつけた名前だ。そしてオレは一人になった。ひとつの青春が終わりを告げた。

この頃はアメリカのオルタネィテブをよく聴いていた。ソニックユース、ペイブメント、チボマット、ウィーン、あとビスティーボーイズのレーベルやKレーベルの音楽は実に自由で楽しかった。

Ps.いやーあの頃にメジャーデビューしなくて良かったと思う。
間違いなくオレは前にも書いたけどつぶれていたと思う。(笑)




マッハで飛ばせ! [ishii]

この曲は唯一GuのK君と共作した。

東京。(迷いながら進む) [ishii]

前にも書いたが、とにかくたくさんの音楽業界の人達からオファーが来た。
結局オレ達は当時大手Sカンパニーの社長をやっていたオヤジに口説かれ、すぐに仮契約をむすばされる。その時のいきさつだけど、ある日電話がかかってきて、Sカンパニーの何々だけどもすぐに会いたいから、日テレに来てくれないか?との事でメンバー3人でのこのこ出かける。六本木にある長い坂を上り日テレの会議室みたいな所に通された。ドアを開けると3人いた。ちょっときつそうないかにも業界人の女の人と、日テレ出版のアホそうな奴と、白髪のロングヘーアーを後ろにむすび背も高いし一見見た目はかっこいいがこのもうさんくさいいかにも業界の社長だ。女の人はクラッシックのベンツで社長はポルシェに乗っていたな。

3対3か、これならオレ達の方が若いからけんかになっても負けないぞ的なバカな話はよそにして(笑)まずは話を聞こうと思い席に着く。イシイ君だったよね?デモテープは聴いた。とにかく気に入った!すぐに仮契約をしてくれとのこと。他からはオファーきてるの?と聞かれ、こことここからオファーがきてると正直に話した。そしたら、まずレコード会社より事務所の方があっとうてきに強いとの事を熱弁していた。レコード会社はどこがいい?好きなところに契約できるからと言われ、クラッシュもいたエピックがいいですねーと答えた。キミ達には3億円かけるよと言われ、音楽だけに専念してもらえばそれだけでいいと熱弁。とりあえず少し待ってくださいと言うと、アホな日テレ出版の人が、ここまで社長が言ってるんだから契約しなよだって。笑

すぐさま契約をむすばずに帰り道、オレとGuのK君とおなじみR君とで、ちょっと小走りに坂を下ると、K君が言った、ここで決まりだよなって!オレはまず冷静になって考えようとハンバーガー屋さんで休憩した。とにかく3億円だし、バイトもせずに音楽に専念できるなんて夢のような話だとK君が言っていた。オレも同じ考えだった。当時The Coltsのマネジャー、Mさんにも相談した。するとあそこの事務所だったら好きにやれるからいいんじゃな〜いみたいな事を言われる。社長に電話をして、とりあえずよろしくお願いします!と伝えた。

展開は早く2~3日してから電話が鳴った。どこどこスタジオに何時に一人で来てくれという話だった。
その日が来てスタジオへと3人で呑気に行った。ビックリしたのはオレ達のとある曲のオケがスタジオミュージシャンによってピカピカに録音されていた。どうやらCMのタイアップなりそうだった。ムカついた。ださく聞こえた。スタジオミュージシャンの鍵盤の奴が来て、イシイ君オルガンはドアーズみたいな感じ?それともこんな感じ?あと、ハモリはこうした方が何々っぽくなるよ言われた。1~2回歌録りをしたんだけど、もうこれはオレの音楽じゃない!オレは前作った方のが良いと言い、これ以上オレは録音しませんと断言。みんな困っていたけど事実だから仕方が無い。このCM制作の指揮をとっていた、とある音楽事務所の社長さんが(一見怖そうな人だが一本筋が通っている)これまた業界の異端児。イシイ君わかった、もうこれ以上録音するのはやめよう。ただ、この曲は良いよな。ボブ・ディランなの?と聞かれた。何か嬉しかった。それと、事務所の社長の言う事は聞かずやりたいことだけをやれってアドバイスをくれた。そのセッションが終わり、事務所の女の人が、あまりみんなと話したらダメと言ってきた。オレにはさっぱり意味がわからなかった。かわいそうだったのがGuのK君とR。自分は必要ないんじゃないかと自己嫌悪におちいった。当たり前だ、いま思い出しても、あれは新人もベテランも関係なく音楽家をなめているとしか言えない。これがメジャーの音楽業界なのかと少し落胆した。

その後すぐにビクターがオレ達とやりたがっているとの事で、青山スタジオにオレ達の担当ディレクターとそのチームの人達と面会。しかし担当ディレクターのKはださかった。小泉今日子のTシャツを着て、オレにネオアコはどうのこうのだよね〜!みたいな糞つまらない事を言い、オレはずっとムッとした顔をしていたと思う。とにかくライブを見たいと言われた。当時のメンバーはオレとGuのK君とベースのRだった。サポートでGuのK君が見つけて来たオルガン弾き、永遠のモッズ小僧A君。(年上なんだけどね)(笑)ドラムは相変わらず不在だった。

数日後、急遽、無理矢理ドラムを入れて、ビクターの青山スタジオで一発撮りをすることになる。ビクターのお偉いさんやわけのわからない業界人の前で口パクでライブをすることになる。ビデオをまわされ、無理矢理のでっちあげバンドをオレ達は装う。完全にピエロだった。そしてどうやらビクターの人事の問題で担当ディレクターKから名前も覚えていない人に変わったばかり。当時オレらの事務所の社長はTVのタイアップつけるのが上手かったらしく、実際、好き嫌いは別として売れっ子アーティストを世の中にたくさんおくりこんでいた。しかしうんざりだった、むなしかったし、マジムカついた。そしてビクターとは契約をむすばなかった。無駄に経費とは故、たぶん聞いたらビックリするほどのお金は動いていた。だが今思えばお互い様だよね。

その後も呑気な事務所の社長から電話があり六本木の某有名な焼き肉屋さんに連れて行ってもらった。
この頃からベースのRが挙動不審になる。当時彼は裏街道に片足を突っ込んでいて、音楽よりもその道へと進む事を選ぶ。もう、十代の頃とは違う。みんなそれぞれの道を選ぶ頃だった。そんな時に高野君とK氏というパッションはあるがどこかうさんくさい2人組に出会う。(なんとかかんとかと言うコンビ名を名乗っていた)がそんなバカバカしい名前はすっかり忘れた。K氏はMCAビクターのディレクターをやっていて、高野君は独立したばかりのマニピュレイターだった。そして後もお世話になったエンジニアH君やマネージメントをやっていたMさんと出会う。最初にそのなんとかかんとかと出会った時からオレは若さ故に喧嘩腰だったと思う。偏見だが、こいつらと一緒に音楽を作るのかと思うとぞっとした。だが、二人とも優しかった。エンジニアのH君も含め6歳離れていたがオレは彼らを尊重しながらも生意気な事を言っていた。あちらこちらのプロ使用のスタジオで業界用のデモテープも作った。

相変わらずなのが、事務所の社長が、東芝EMIが興味しめしてるとか、トイズファクトリーがどうのこうのと、もう訳が分からなくなって来たときにテイチクがやりたいって聞いた時、オレはムカついて帝国蓄音機ですよ!オレは嫌だ!と社長に言った。(笑)ただ、当時のテイチクは実はがんばっていて新しいレーベルを立ち上げて、少しサブカルチャーの方に寄っていた。事務所の社長としてはたくさんお金のあるレコード会社を探していたんだが、オレ達は別にそこまでお金をかけてもらう必要はなかった。その後も色々あったが、高野君やK君がイシイの目指してる所は、実はあの社長と合わないんじゃないんじゃないかとのこと。

オレらは事務所を辞めてもう一度出直すわという事になり、また宅録や、少しずつライブもやる事になった。そうそう、ポニーキャニオンの人が凄く一生懸命でオレの家にも連絡くれたし、事務所にも連絡が来たが、あのアホ社長が、あそこは金が無いとまでは言わなかったが全く乗り気じゃなく無惨にも縁がなくなった。電話で話したかぎりポニーキャニオンの人は何だか解らないけど、凄い情熱を感じた記憶がある。一緒に何か面白い物が作れたかもね。





一休み。 [ishii]

今日はAppleStoreでOne to Oneだと思い、夕方近くに行くと、予約の日をかんちがえしていたボケなオレでしたが、Appleのスタッフさんが自習のコースに入れていただき無事iPhoneがバグっていたところや新しいMacBook Proのわからないことを教えてもらって先ほど帰宅。久しぶりに会ったAppleスタッフの人に、おっ、相変わらずリンダリンダだなと言われ、よくわからなかったが、まぁ、褒め言葉だという解釈でドトールでコーヒー。だいぶ昔にも書いたと思うけど、ジム・ジャームッシュさん、オレもいい歳になってきたので、コーヒーアンドシュガレッツの続編があったら出させてください。よろしく!(笑)
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東京。(天狗の時代) [ishii]

Rockにジャンルやスタイルは必要なのか?
答え。残念ながら必要なのかもしれない。

外見は普通でもパンクな人達はいるが、世の中では解りづらい。
何がパンクで、何がパンクじゃないかは、もう人それぞれに任すとしょう。

オレは十代の後半でパンクロックとほぼ決別している。
R&B、ヒルビリー、アメリカのカントリー、デキシーランドジャズ、映画音楽...etc
お姉ちゃんの彼にずいぶん渋い曲聴いてるねなんて言われてた。

映画は大好きだった。
子供の頃からいろいろ見た。
特に中学生の頃、ありとあらゆるジャンルを見ていた。
学校に行くのがあまり好きじゃないから、よくさぼっては映画を見ていた。
オレの中学の担任が演劇部の顧問で、家庭訪問に来ても、リョウスケは全く問題無いですと一言。笑
その後はお母さんと演劇についての話や、あの舞台のチケット取れませんかねぇ?とオレの話はほぼ無し。担任の先生は、オレの母親が母親だから、オレが演劇などの道に進むのだろうと思ってたらしい。

さぁ、東京の続きだ。
当時はいろいろと音楽を漁っていた。
その中でもクリエーションレーベルのアーテイストとストーンローゼスに夢中だった。
ストーンローゼスがセカンドカミングを出す頃でうきうきしていた。
オアシスのファーストが出たときもこれはかっこいいと思った。
川崎のクラブチッタにライブを観に行った。ノエルとリアムが何だか揉めてた気がする。

ブリットポップブームのど真ん中、オレもミハーだったからマスコミにあおられどっぷりとつかった。
新宿にあるローリングストーンというクラブにも週末よく遊びに行った。(ここのクラブはリクエストができるのだが、オレがリクエストした曲は必ずと言ってもいいぐらいかけてもらえず、友人Nとここのクラブは有線放送だなって笑ってた。)当時、オレはお金が無くいつも名古屋時代の頃からの友人Nにおごってもらってた。

友人Nは最初オレの家の近所に住んでいたが、下北沢に引っ越しって行った。
彼は当初カメラマンを目指していた。アフロヘアーで友人Tが働く六本木のクラブにもよく行った。
ある晩、六本木の街を歩いていたら、彼の髪型を見た、すげえでかい、怖そうな黒人さんが激怒していた。笑
映画の話、小説の話、音楽の話、未来の話など明け方までしていた。悪さもしたし、楽しかった。

音楽はというと、ドラムが定まらず、相変わらず自宅録音と、たまにライブをやる程度だった。
いま、軽井沢に住んでいるK君のお兄さんT君ともセッションした。当時たしか4~6曲入りのDemoカセットテープを作った。ビートルズをパロってしてナシレーコードというレーベルにした。笑

おっと、忘れちゃいけないのがBECKの存在だ。
1stのメロウゴールドにはびっくりしたし、音楽は何をやっても関係ないと思った。
(オレ的にはナイジエロ・ゴッドリンチがプロデュースしたミューテンションズがBECKの本質だと思う。いまでもたまに聴くとやっぱり良いなぁーと思う)BECKのライブも観に行った。いままで観たライブでも1~5番目にあげられる最高なショーだった。

話を戻そう。
その、4~6曲入りのデモテープを当時Guだった奴がいろいろな所にばらまいて、毎日のようにいろいろなレコード会社や出版社、音楽事務所から電話がかかってきた。オレ達は完全に天狗になっていた。ある日はポニーキャニオンとどこぞの出版社だぜ。ある日はよく覚えてないがビクターの誰それから留守電に入っていたよみたいな感じだった。一番笑えたのが清水美智子さんのラジオで一曲取り上げられ、歌詞について最近の若い子は難しいわねーみたいなコメントだった。

おまけ。
この曲は思い出せないが20代前半か中頃に作られた物。
初期のサイケデリックなヴァーブをお手本に作られた。
当時の時代がプンプンしてるなぁー。笑






たまには日常を。 [ishii]

今日の名古屋は暖かく散歩日和。
オレのiPhoneが調子悪くAppleStoreに持って行くと4~5時間待ち。
明後日AppleStoreでOne to Oneがあるので、その時に見てもらおっと。
ちなみに洋服を衝動買いしてしまった。何着同じような服を持っているのだろう?
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東京 (やりたいほうだい) [ishii]

えっーと、英語にするならWellかな?
The Coltsのローディーをやめ「とはいうもののほぼ何もしないでライブに遊びに行く的な...」苦笑 

オレは実験的にバンドを組む事になる。名古屋にいた友達の(元ジェリリーのベース中やんがいたバンド)ライブをサポーするためだったが、だがこれまたオレらの客、柄の悪い奴らが来てE.L.Lはあまり良くない雰囲気になる。ヒサシ the kidもこの頃に知り合う。最初の頃のジェリリーはヒサシはギターを持たずVo一本でやっていた。

この頃ライブが少しずつやりたくなる。
当時のメンバーは、オレがVO,Gu.ベーシストは東京に一緒に上京したR。ウオッシュボードに漫画家N。あとはのメンバーは忘れた。(たぶん友達集めてでっち上げたんだと思う)オレ達はラステックスタイルで、ジーンビーンセットやポーグスなどをやった。シゲさんに素人をステージに立たせるなって言われたな。笑

東京に帰りひょんな事で早稲田大学の音楽サークルの人達と知り合う。
その中のY君がドラムをやる事になる。彼らはみんな年上で何か新鮮だったけどサークル特有のマニアックな考えとストリートを知らないモラトリアム気質を持っていた。何かとフリッパーズギターと比較されたが、オレ自身フリッパーズをまともに聴いてなかったので何のこっちゃって感じだった。小声で「こんばんはカヒミカリィです」とバカにしてたら本気で怒っていた。笑

ライブでチャールストン?的な曲をやると、イシイ君達はポールウェラー的な曲をやれって(もちろんスタカン)なのだが。オレ的にはいろんな曲があってもいいじゃんという考えがあった。ドラムがもうオレ達みたいなアホとやりたくないって去って行った。どっちがアホなのであろう?ゴッド オンリー ノーズ (神のみぞ知る)
そんなこんなで、また宅録という地味な世界へと帰って行く。

当時の事件としては、オレとベースのRが、友人Mの家に夜中チャリンコで中野方面に遊びに行く途中、チーマーの奴ら20~30人にぼこぼこにされた事だ。何が何だかさっぱりわからなかった。オレら二人が気絶して起き上がったときにオレがRにオマエの鼻が曲がっているぞ!と言い、いや、イシイ君自分の顔見た方が良いよ!マジやばいよって笑っていたが、後大変な事になる。真っ先にMに「何かオレ達ぼこぼこにされて気持ちが悪いから今夜は無理だな」と電話をした。意識がもうろうとしていると、友人Mがオレの家に来て、これはやばいと感じたらしく、救急車を呼んだ。詳細はよく覚えていないが、オレは12時間におよぶ大手術で2週間ばかり入院した。Rは3日間ですんだけど、鼻が曲がったので、その鼻を固定するために顔にばってんのテープがはられていた。(人生そのものです)笑 オレは入院して体重が51キロまで落ちていた。さすがにびっくり。細胞が怪我をを直そうと必死になって、栄養が全てそっちにいったんだと思う。酷い話は、オレの彼女がお見舞いに来ては、オレのぼこぼこに腫れ上がった顔を見ては楽しそうにキャキャ言いながらその顔をスケッチしていた。まぁ、変に深刻な顔をされるよりはましだけど...笑

そんな頃BMGやフジパシフィックがバンドではなくソロでという形でオファーがあった。
よくわからないまま焼き肉に連れて行ってもらったりした。

つづく。



東京。 [ishii]

19歳、名古屋でのバンド活動に終止符うってから、オレが旅に出る所まで書いた。
その後、何もやりたくなくなっていた。でも退屈だ。

東京に行こう!ほぼ何もあてもなかったが、そう思ったら即行動。
名古屋で同じバンドやっていたRに「オレ、名古屋がもうつまらないから東京に行こうと思っているんだけど、お前も行く?」と訪ねるとオレも行くと言い、2人で東京に行き物件を探しに行く。母親が通っていた武蔵野音大に近い西武鉄道の東長崎のマンションに決めた。このマンションの離れにある元々何かの事務所だった所に無理矢理お風呂をつけた物件だ。部屋は12〜3帖のワンルーム。音が出せ、都心にも近い所という条件だった気がする。

名古屋に帰ってから、いまでは売れっ子漫画家のNも、オレも一緒に東京に行くと言い3人で上京する事になる。楽器と洋服以外ほぼ何も持って行かず東京に向かった。楽しかったなー!

オレは雑誌Dollでも募集していたTHe Coltsのローディをやる。
名古屋の先輩や服屋さんにも後押ししてもらった。

オレが東京に上京してからすぐに名古屋にいた彼女も上京する事になり、オレは一ヶ月ぐらいでそのマンションを離れ彼女と住む事になる。

仕事はもっぱらパチンコ。あとはTheColtsローディ。
The Coltsの山里さんに仕事しろーって怒られたなー。(苦笑)

うる覚えだが当時はトムウェィツやディランみたいな事をやりたかった気がする。
バンドもないのに一人もくもくと音楽を作っていた。

しかし、やっぱりバンドがやりたくなってくる。
当時、原宿にあった服屋さんブルーボーイだったかな?の店員とスタジオに入ったりもした。
あまりピンとこなかった。

そんな頃、これまたDollのメンボでギターリストK君と知り合った。
オレはいわゆるパンクファッションをしてなくてアメカジだった。
彼は高知から出てきた田舎もんだったが、パッションはあった。
初めて会った時は、ベルトはドクロのバックルをはめトリコロールのサポーターをしていた。

彼はとても純粋で順応性があった。
とにかく何かやろうという事で一致した。
彼はトムウェィツやクラッシュ、ブランキーなどが好みだった。

オレは当時ストーンローゼスやビックオーディオダイナマイトみたいな事がやりたかった。
ドラムなんてもういらない。4チャンネルのカセットMTRとRに無理矢理買わせたシーケンサーがあれば、何も問題なく音楽が作れると思っていた。毎回が実験だった。

当時の東長崎のマンションはもう酷い事になっていた。
名古屋から友達がたくさん居候していた。基本土足だわ、マリファナを吸ったり、友達なんかはエイトフォーを吸ったらぶっとぶぜなんて言いながら時を過ごした。
つづく。





あの頃とこの頃 (番外編) [ishii]

前回の話は十代の2~3年間を無理矢理詰め込んだもの。
ほかにもたくさん話はある。

まずは、オレ達の世代の名古屋はヤンキーがずいぶん少なく、みんなパンクスかチーマーだった。
オレのバンドのドラムも、後に入ったギターの奴もそんな奴だった。

オレなんかは音楽に夢中だったからあまり彼らとは関係なかった。
しかし客もメンバーもチーマーが入り混じっていたりしてた。

ある晩、名古屋の栄セントラルパークに、パンクスSと、チーム一日体験をしたけど、正直つまらなかった。
中には骨のある奴もいるけど烏合の衆に感じた。中学の頃の友達の弟や知ってる顔ぶれが徒党を組んでラリっていたりレッドウイング狩りなどをしていた。

思い出と言ったら、モンスターズの小林さんに(クラブ ザ スター系のパンクバンド)にお世話になった事。大須にあるアマポーラというパンクファッションや古着が売ってるお店にデモテープを渡しに行った。(当時、小林さんはそこの店の店長だったと思う)一回り以上歳も離れていたけど優しく接してくれて、イベンターのジエイルハウスをはさんで当時全国的に知名度があったパンクバンド、マグネェッツと2バンドでライブ。東京からわざわざ来てるバンドに対してオレらの客は冷たかった。そうそう、当時のE.L.Lは隣がやくざ屋さんが経営している喫茶店だったから、オレらみたいなバンドは客が表でたむろするから、だいたいその喫茶店が休みの日の月曜日にプレイしていた。あと、シゲさんに学校の制服でリハに来るな!ってぼやかれていた。当時シゲさんはオレ達をパンクバンドと対バンさせたくなかったようだ。ただのパンクバンドでは終わらない何かを見いだしてたらしい。

タトウも流行っていた。オレの周りはほとんどいれていたね。
オレも若気の至りでいれたけどね。(笑)

バンドを解散させたのは、ドラムの奴が逃走したのと(後26〜7歳という若さで自殺する)オレ自身も名古屋のシーンに飽きてきたから。当時、某雑誌にも取り上げられた。何かその雑誌と音楽事務所なんかが主催しているライブも決まっていたけど、オール無視。その次の号には誹謗中傷が書かれてあった。何かいま思うとパンクらしい終わり方だった。(笑)

最後のライブはハックフィンでやった。
オレ達と友達の主催でロカビリーの奴らや、ゴリゴリのパンクバンド、ブランキーみたいなバンドが出ていた。
客層はパンクス主流で大入り。オレ達がライブをやると裏切り者みたいな感じで後輩からたばこなどが飛んできた。オレがパンクのビートじゃなかったら踊れないの?って客をあおって、クラッシのジミージャズをプレイしてるときだったかなぁー?後から考えるとブルースブラザーズの気持ちがよくわかる。(笑)とにかくあの頃の客パンクス達は暴れたいのだ。

そんなこんなで十代の一番血気盛んな頃をオレはこんな感じで過ごしていた。



あの頃とこの頃 (ロックンロールハイスクール) [ishii]

さーてと続きを書こう。
17歳。中学の同級生ベースのT君がやめて、オレ達は3人になってしまった。(実質2人だが)
T君がやめた理由はよく覚えてないが、前に進むしかないオレ達...

ベースはオレがやる事になった。お母さんをそそのかしフェンダーのプレジションベースを買ってもらった。もちろん白のボディで黒のピックガードのやつ。ポールシムノン(The Clash)に憧れていたし、パンクバンドはベーシストがかっこいいからだ。ベースをひきながら歌うそんなスタイルでライブをやった。しかしベースをひきながら歌うのはとても難しかったので一度だけVoをいま軽井沢に住んでいるK君に頼む。

ベーススタイルだと限界があったので新しいベーシストを入れた。
背が高く色白でルックスも良い後輩Rをベースに入れてライブを続ける。(レッドチェリーのDr.マーチンがよく似合っていた)ドラムがいなかったので、これまた中学の同級生のKちゃんにサポートしてもらったり工夫しながらバンドは続く。

この頃ライブハウスにも出だした。オレはフェンダーのテレキャスターをかき鳴らし歌う。オリジナルもたくさんあった。ベースを入れる前に初めてのレコーデイングもした。定まってなかったドラムを中学生の頃からのバンド友達、J君の紹介で後輩のNを入れた。順応性あるがやんちゃなやつで、初めて会ったときは髪が長く、オレのバンドに入るならモヒカンにしてこいと言うと次ぎ会う頃にはあっさりモヒカンにしてパンクファッションになっていた。(笑)

快進撃が始まる。名古屋はハックフィンやE.L.Lのレギュラーになる。
当時のE.L.Lは敷居が高くてプロバンドか、いま思えばフラワーカンパニーズのように良質なバンドが出ていた。
当時のライブハウスではめずらしくチケットノルマもない。お金のチャージバックも抜群によく、ライブをやるたびにお金持ちになった。E.L.Lの最初のオーディション受けた時、オレ達は店長のシゲさんに、この場がコンテストだったらお前らが優勝だと褒めてもらった。嬉しかった。ライブはというと地元のパンクスや悪いやつらがライブに遊びに来ていた。

だが、オレの好奇心で(良くも悪くもミーハーなので)パンクロックは一年半位で打ち止め。
ロカビリーやサイコビリー、スカなどにバンドの姿は変わって行く。彼女もできた。それまでも彼女らしき人物はいたのだけれど、オレがシャイだったから、あまりうまくいかなかった。だが気持ちはパンク。
そんな頃にオレ達のバンドをコピーする女子高生まで現れる。(笑)

2〜3ヶ月に一度はレコーデングをしていた。E.L.Lのシゲさんがラジオ番組をもっていて、それに流してもらうためだ。まぁ、シゲさんが言うには、レコーデングすれば、その曲がどんな物か客観的に聴けるかららしい。
とにかくバンドに音楽を聴く事にファッションに夢中だったし、彼女といるこことがとても楽しかった。
ある晩、彼女から電話がかかってきた。イシイ君、ラジオでイシイ君達のバンドがかかっているよとのこと。
あれもうれしかったな。

時は同じく、母親とパリとロンドンに二週間ほど遊びに行ってきた。
いわゆる母親の友達に会いに行くという旅だった。
その時初めて母親の前でたばこを吸った。
当然母親はオレがたばこを吸っている事は知っていたが目の前で吸う事はしなかった。
何故だか恥ずかしかった。

旅先にはボーダブルのCDプレイヤーにクラッシュのロンドンコーリングだけを一枚持って行った。
パリでお母さんと仲の良い外交官を旦那に持つHさんの家にお世話になった。
その家で働くシェフのおじさんにいろいろといかがわしい街に連れて行ってもらったが、オレは全く興味なし。
早くロンドンに行きたいと思っていた。

ロンドンに着いた。
もう、カムデンでレコード漁り。
友達には安っぽいジョーストラマーが着ていたTシャツなどをお土産に買って行った。
オレはというとイギリス限定版のステッフリトルフィンガースのアナログなど、どっさり買ってきた。

旅から帰ると、母親が病気になった事に気づく。
パリでミュージカル観たり、バレエを観たり楽しんでいた母親が...
オレはというといつものバンド活動に帰って行った。

オレ達バンドは神戸に初めてツアーへ行った(当時全国区で人気が出だした先輩パンクバンドにおよばれして)ほいほいツアーに行く。ちなみに神戸のオーディエンスのパンクスにバンドマン達にうけ入れられた。

役者。バンドはいい感じ、波はあるが続いて行った。
そんな頃、いつも使っていたスタジオのおじさんに、イシイ君、役者になればと言われた。
バンドもこの若さでクオリティーも高いし。だけど、オレはその気はなかった。

母親は高校生の頃宝塚劇団に入りたかったらしい。
歌う事も、踊る事も、華やかな世界が大好きだった。
しかし、おじいちゃんの猛反対で、渋々東京の武蔵野音大に行く事になる。

そんな母親の息子のオレに対して母親は将来役者になる事を疑いもなく信じていた。
中学3年生の終わり、オレの進路を決める頃、母親はアメリカはN.Yにある有名なアクタースクールに入れようとしていた。だが、宮本亜門さんとかが当時のN.Yは治安が悪いし、あまり進められないとの事で却下になった。あと、オレがパンクになりたいというわけの分からない理由もあったからだ。(笑)

母親が死んだ。肺がんだった。
オレには当時正直よくわからなかった。死という意味が。
母親としてはは失格だけど、一人の女性として、とてもユニークで、チャーミングなあの人ともう会えない事だけは理解ができた。オレは相変わらずバンドを続けた。しかし一番油が乗ってこれからだというときに解散した。そして、姉からお金をもらい一人旅に出る。






ネクストチューズディ [ishii]

この曲も20代中盤に書かれ録音された物。

眠り曲。 [ishii]

この曲は全部MacのGaregBandを使って自分で録りました。
仲間内にしか聴かせていない、ある種ストロークスのパロデイです。笑
ずいぶん昔に録音されてます。

あの頃とこの頃 (しくじれよルーキー!) [ishii]

この物語はリアルタイムで進行しているなんちゃらかんちゃらなんてアメドラの24のように文書を進めるのもたまには良いかなぁーなんて思いつつ (笑) 昨年買った新型MacBook Proの画面に向かう。バックにはラモーンズのロックンロールレディオが流れている。夜ごはんも食べ終わり、ミルクとカフェインたっぷりのコーヒーを飲みながらのんびりとしていると書きたい事がわからなくなってる。(というより思い出せない...困った)部屋ではたばこが吸えないので、台所の換気扇まで行ってたばこを吸うのだが、たいして何も変わらない頭の中。

オレは5月生まれなので人より早く年齢を重ねる。
16歳。とにかくパンクロックにファションに夢中だった。
バンドのメンバーも、何となく形ができ、スタジオでオレの作ったオリジナルや、パンクバンドのカバーを演奏しだした。牛乳屋という本当に牛乳をメインで売っている民家の上にあるスタジオだ。スタジオ代も安く密室なので誰も入ってこない。いろんな奴らが悪さをしていた。(オレは悪さはしなかったけどね)いまどうなっているのかよくわからないが。まずはスタジオにどんなファッションで行くかが大切だった。まぁ、基本、頭はリーゼント、上はショットか金のないやつはバッタ物のダブルの革ジャン。下はリーバイスの501かLeeの101にDr.マーチンかレッドウイングのブーツが定番だった。Offの時はコンバースのオールスターのハイカット。

あたりまえだけど楽しかったのは音を出して演奏する。みんなでオレ達プロみたいじゃん!なんて言いながら少しづつ上達していくのがわかる。これはバンドをやったことのあるやつだけがわかる快感と台詞!
あと、オレ達の痛手はドラマーがパンクより女にモテたいというある意味健康的な奴で、何度かライブをやったが去って行った。

つづく。

あの頃とこの頃。 [ishii]

もう少しブログというこの場所を借りて音源をUPしようと思っているのだけれど、
何故、今更、新曲ではなくバラバラに古い曲を(恥ずかしいのも多々ある)人に聴いてもらおうと思ったかというと、オレにもよくわからないが、ここ最近芽生えはじめた色々な心境がそうさせてるのかもしれない。

15歳、中学3年生のオレは同級生の友達に誘われ、初めてバンドという衝動的でエネルギッシュな生命体に交わった。バンドのメンバーの家のガレージで練習をした。近所迷惑だと怒られた。でも楽しかった。オレは子供の頃から音楽や芸術という分野では本当に良い環境に居た。母親はピアノの先生で絵を書く事を愛し、そして、いろんな音楽家やアーティストのマネージメントをやっていた。当時はまだ駆け出しの演出家宮本亜門さんなどが家に遊びにきたり、いまでは世界が認めるオシャレ関係のテーマ曲アコーデオン演奏者コバさん(ビョークのツアーにも参加してるとの事)が売れてない頃にアドバイスをしたりしていた。姉はチェロ、兄もバイオリンとギターをやっていた。お父さんはお洒落で外資系の会社で働く偉い人だった。子供の頃、オレが初めて楽器にふれたのはバイオリンだった。ピアノはもちろん、ドラムやベースも習っていた。しかしどれも長続きはしなかった。音楽よりも野球に夢中だったからだ。

音楽といえば、何度も書くが子供の頃から家には音楽があふれていた。
ビートルズにクラッシック、ミュージカルのサントラ...etc
オレの姉など小学生に入るか入らないかの頃、両親の寝室でビルヘンリーのロック アラウンド ザ クロックのレコードを部屋の鍵をかけ一人踊っていた逸話がある。オレもビートルズのホワイトアルバムやグリースのサントラなどが子供の頃お気に入りでよく聴いていた。

邦楽ではラフィンノーズ、ケンジ アンド トリップス、レピシュなどを中学生の頃聴いていた。
そんな後に知ったのが名古屋のパンクバンド、スタークラブだった。当時のスタークラブはアンダーグラウンドの匂いがプンプンしていてバンド自体油が乗っていて本当にかっこよかった。夢中になった。岡崎CAMまで友達と革ジャンを着て電車に揺られライブを観に行った。

そして、その後、ザ クラッシュと出会う。
たぶん、一枚のポスターかなんかだと思う。
かっこよかった。スタークラブと同様リーゼントで革ジャンを着ていたと思う。
オレの進路は決まった!パンクがオレの生き方だなんだ!と思い突っ走っていく...。

16歳。新しいバンドのメンバーを探す。同じ気持ちと情熱をもった男を。
見つけた。ギターリストで名前はS君。いまではトラックの運ちゃんだが、リーゼントもスパイキーもよく似合う最高の女房。
ベースには中学の同級生のT君。いまではワーゲンショップ(ビートル中心)で働く面白いやつだ。
中学の頃のメンバーで唯一オレがやりたい事に共感してくれて、オレが初めて作った曲も彼が褒めてくれた。
タイトルはNo more War! 2曲目はジェームスディーンはみんなのヒーロ的な曲だった。

それはそれで何よりオレ達の先輩や同世代の名古屋はパンクやハードコアが溢れる街だった。(映画メリケンサックをぜひ観てほしい)バンド、スタークラブを筆頭に原爆オナニーズ、SA、(当時は世代がだいぶ上で解散していて顔も知らない伝説なバンドになっていた)双子のツインボーカルローズゼッツ(彼らも世代が上なので、オレがレコードを手にしたときにはとっくに解散していた。地元の先輩にガーゼのレコードやスタークラブのポスターなどをもらった。うれしかった。

俺の家の近くにはビレッジバンガードの1号店や、マニアックなCDやビデオが置いてある怪しげなレンタルレコード屋さんが何件か存在していた。ちなみにこちらも世代は違うがオレの中学の大先輩であるフラワーカンパニーズのVo圭介君がバイトしていた。しかしあの頃の名古屋の街はそこらじゅうにパンクスやハードコア、またはロカビリー、サイコビリーの奴らがゴロゴロしていて、石も投げりゃ何々に当たるみたいなそんな環境だった。あと俺の家の近所にYAMAHAのワンワンという大きな楽器屋さんがあった。まだライブハウスではPlyできない若造達がそこのお店の最上階にあるホールでライブをやっていた。ちなみにオレが住んでいる地域は名古屋の金持ち達がのんびり住んでいる場所で、何故あのようなカウンターカルチャーな店がたくさんあったのかがいま思うと不思議で仕方がない。
つづく。


Random Thoughts ー心の向くままにー

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